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〜出口のないトンネルなんてない〜

鬱田シノの人生 〜第5章〜『専門学校編』

▽〜第4章〜『高校編』 

前回のあらすじ】ど底辺な高校へ入学した『鬱田シノ』は困惑していた。何故、教室の暖房の上でルーズソックスが乾かされているのか。「教室内がお前の靴下で汚染されるだろうが!」なんて口に出す事は出来なかった。相手はジャックスパ◯ウ。勝てる筈がなかった。そして、憧れていた美少女の鼻毛で真剣に悩み、ついに“鼻毛真剣”を習得した。この先どんな敵が待ち受けているのであろうか…。

utsudashinou.hatenablog.com

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デザイナーに俺はなる!?

刺激を求めて三千里

高校を卒業後、家から2駅隣のデザイン系の専門学校に入学した。昔からの長所でもある“他人とは違った感性”をフルに活かせるのがデザインだと思っていた。デッサン、グラフィック、WEB、一眼レフカメラ、デザインする上での基礎を学んだ。授業の一環として出展したデザフェスはたくさんの刺激を受け魅力的だったが、学校内では刺激を受けることが少なかった。授業も、周りの環境もつまらない。地方校のせいかナニカを掻き立てる意欲に欠けていた。そうして、休みがちになった。

 

無意味の意味

学年で上から2番目に休むほどの欠席率を誇った() レポートの嵐だった。レポートを書いている時間こそ無駄of無駄だった。これがなんの為になるのだろう…?なんの生産性も価値も見出せない、単位をとる為だけのレポートを書くっていうシステムは本当に理解ができない。せめて、デザイン系ならレポートの枚数分のデッサンを書く方がそれこそ有意義だろう。

 

セーブしたい人生

ポケモンだったらレポートを書かないとスタート地点からやり直しになってしまうから必須の行動だけど、リアル世界での単位を補うレポートなんてのは右手小指の外側が黒ずむだけの愚行でしかない。それにしてもポケモントレーナーってのはレポートに数秒これまでの事を書くだけで記憶として保たれるってすげーよな。一週間フレンズIfシリーズもビックリだわ。人生の分岐って各々たくさんあると思うけど、そんなタイミングでセーブ出来たらいいなぁなんて一度は思うよね。枝分かれした人生の選択肢の中でどれが正しい道かなんて分からないモン。

 

郷に入れば郷に従え

と。言葉がある様に、決められた環境の中で、決められた制度があるのは、決められた事。そんな世界が嫌いだった。理不尽でも、無価値でも、可笑しいと思った事を否定できない世界。それが社会。こんな窮屈な世界で生きていたくないと、この頃から思い始めた。それでも、この頃はまだ未成年の身。言い訳を散々並べたが、学費を出してもらい通っていた訳で、自分がやりたかった理想と現実の差から逃げ、相変わらずの親不孝だ。今思えば、もっとしっかり勉強していれば良かったとも思う。デザイン関係では想像するのは得意だったが、創造するのが苦手で諦めてしまった。

 

大人の階段登る

ねだるな、勝ち取れ

そしてパチンコにハマった。初めて行った時に福沢を7枚勝ち取り、2回目では諭吉10数枚を手中に収めた。この時、周りの環境も気にせず、人と接する事なく、こんな簡単に稼ぐ事ができる希望なんてものはないと判断(錯覚)し、将来の夢はパチプロとなった。それが漢の定めだった。母とよく一緒に打ちに行っていた。言い合いもたくさんしてたけど、勝った時は一緒に焼鳥ビールキメたりして犯罪的な美味さに酔いしれていた。

しかし、そうずっと上手くもいかず、言葉通り打ち拉がれ、現実を見る。2年ほどバカみたいに通っていた僕にDメールを送りたい。エル・プサイ・コングルゥ。

 

ウツダ星人をやっつけてくだちぃ

在学中に成人し、酒もタバコを吸えるようになり、初めて合コンに行った。同じ系列の服飾系の学校との合コンだった。後ろ姿は皆可愛かった。期待に胸を膨らませ、正面に座るとファッションモンスターだった。これが最初で最期の合コンだった。

このまま能天気に夢もなく、やりたい事もなく、惰性に過ごしていくのかなぁなんて過ごす日々に突然、前触れもなく事は起きた。

  

東北大震災

2011年3月11日

その日の天気は晴れ。春休み期間だったかな。地元のライブハウスでロックバンドのライブを見に行く日だった。一緒に行く友達とライブまでの時間を潰す為に、買い物をしていた。カー用品の店に居た。確か、スマホを車に繋いで音楽を流す装置を欲していた記憶がある。

 

午後2時46分

地響きと共に、今までに無い揺れが起こった。店内の商品がたくさん降ってきた。店員氏に外へ避難するように促される。(この東北大震災が起きるまでは、まだ“地震”というものにそれ程の危機意識が薄かった時代。特に若い人は。)僕は持っていた商品を悠長にレジに置き友達と外へ出た。地面が、電線が、世界が波打っていた。

外に陳列していたタイヤは崩れ落ち弾み、積んであるオイル缶などはぐちゃぐちゃに溢れ、電線は縄跳びの様にしなり、駐車してある全ての車がひとりでにカーセ…激しく動いていた。目に見える世界の全てが蠢いていた。

 

事の深刻さに気付いていなかった

一旦揺れが収まり、友達と「めっちゃ揺れたな、なにこれ」「よしライブ会場向かうか」そんなノリだった。そして、そのまま動こうとしていたら母から電話があり、直ぐに帰ってこいとの事だった。道路は割れ、木が倒れていた。回り道をしながら友達に車で送ってもらい家に着くと、家の中はめちゃくちゃになっていた。

 

異変に気付く

ここで、さすがに状況を把握し、「これは遊んでる場合じゃねえ!」と、友達にも帰るように伝え、僕は浴槽に水を溜めた。その後、水道・ガス・電気が止まった。(なぜ、この時の僕にこんな知恵があったのかは未だに分からない。)一時期的に一家の救世主となったが、浴槽の水がなくなるのはあっという間の事だった。

それからは川の水を汲みに行ったり、給水所へ行ったりと、母がほとんど一人でやっていた。全く手伝おうとしていなかった過去の自分が憎い。ブチのめしたい。

今思うと家族になにもなかったのが不幸中の幸いだった。近所の友達の家では全壊してしまった人も居た。

 

震災後

2週間程でライフラインも整い始め、また日常が戻ってきた。余震は依然として続き、最初の頃は“緊急地震速報”にもビクビクしていたが、慣れてしまう程には頻発していた。テレビを付ける度に震災関連のニュースばかりで嫌気がさしていた。地域によっては凄まじい程に被害が及んでる箇所が無数にあり、現実味がなかった。僕の周りではそこまで被害が少なかったのは不幸中の幸いだった。(たくさんのデータが詰まったデスクトップPCが破壊された事は痛手だったが…)

あれからもう7年が経とうとしているのが、今でも忘れられない出来事になっている人はたくさん居ると思う。未だ行方知れずの人や、亡くなってしまった人も…ご冥福をお祈りいたします。

 

専門学校を卒業、環境の変化

ニート爆誕

震災の影響を言い訳に専門学校卒業後、直ぐに就職することができなかった(本気でパチプロを目指していたのもある)。避難区域では無かったが、原発からは遠くも無い地域だったので放射能問題が騒がれていた。僕はそこまで気にするタイプでは無かったのだが、程なくして生活費を送ってくれていた父から連絡があった。「戻ってこい」と。

父なりに心配していたのだろう。母の悩む姿を何度か見た。僕にも相談してきた。というか、自分の問題なのに僕の環境や進路の事ばかりを考えた上で悩んでいた様だった。

 

離婚前後の父

小学校編』でも述べたが、離婚の原因は父の金遣いの荒さ、乱暴なところ、頑固さからくるものだった。離婚してから別居し、生活費を定期的に送ってくれていたが、手紙も何度か添えられていた。「変わるから」「今でも愛してる」それが、母と子に送り続けていた内容だった。母に悪いと思い、僕は返事を返さなかった。なんなら当時の僕も父に対して良い印象は無かったからだ。

食べ物の好き嫌いをすると箸で殴ってきたり、バドミントンのラケットで頭を殴られた事もあった。田舎特有の古い仕来りを続ける頑固オヤジそのものだった。暴力と威圧で成長させようとするスタイル。寧ろ嫌いだったかもしれない。今思い返すと子に対して乱暴な父を見て、母は子2人を引き連れ離婚を決めたのかと思う。

 

両親が復縁した

結論から先に言うと、離婚後、10年の時を経て母と共に父の元へ戻った。田舎のばあちゃんは寂しそうだった。10年も住まわせてくれた。母と共に家を出るときに「元気でね」の一言を伝えたが、涙を浮かべなから笑顔で見送ってくれた。(今でもばあちゃんは元気。シーズンに一回、2週間くらい母が会いに行っている。) 

兄は僕が専門学校に入学する頃には就職し、一人暮らしを始めていた。この2年の間、父は再び一人で暮らしていた。

 

元の家で3人暮らしが始まった

父は変わっていた。10年の時を経て多少の老いを感じた。そして、気性が穏やかになっていた。手紙にもあったように「変わるから」の意識改革は行われていたのかもしれない。人は意識する事で“変われる”それを垣間見た。が、変わる部分もあれば変わらない部分ももちろんある。初めは父と母が目の前で言い合いになる事も多かった。

父「また今までの事、無かった事にするぞ」なんて脅し始める。母も対抗する方だったので、また何度か破局のフラグも立っていた。が、今までと違う部分は僕が大人になった事。10年前では見ている事しか出来なかったが、今では意見が言える。

 

子に対する父の意識の変化

成長した僕を見てか、昔のように父が僕に怒る様な事は無くなった。なぜなら話を論破出来るからだ。正論を叩き出せば理解ができる父で良かったと思う。

今まではお山の大将にでもなった気でいたのだろう。意見される事がない環境だったからこそ、子の僕に指摘されるのは目を丸くして子供の様に聞いてくれた。今となっては昔とは大違いのまともな父親になった。

 

両親に物申す僕

人の気持ちを考えて説得や意見を伝えるのは得意な方だったので、父と母、お互いに悪いところ、良いところを述べ続けた。最初は喧嘩を仲裁する事も多かったが、その結果もあり、今では仲が良い家族となった。

実際、子が親を助けられるシーンもたくさんある。恩返しではないけれど、両親には仲良くいてもらいたい為の行動だった。(最近でも家族で酒飲みながら飯食ったり、兄が帰って来たときは4人でボードゲームをするくらいには仲が良い。相変わらず母には毎シーズンおすすめのアニメを教えているw)

 

ニート、我に返る

そんなこんなで数ヶ月が経過し、気付いた事がある。「僕の仕事は両親を仲良くさせる事ではないwww」そうして、就職活動を始めた。

 

6章に続く

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